家族が余命宣告を受ける、という言葉は知っていた。
でも、それが自分の人生に起こるとは、どこかで思っていなかった。
これは、母が「余命三か月」と告げられたときから、
私たち家族がどう過ごしたかの記録だ。
余命宣告を受けた家族として、どう過ごしたか
1.余命を知らされた日
母の病状についての医師の説明には、弟が病院に付き添っていた。
父も同席していたが、あまりのショックで、話はほとんど頭に入ってこなかったようだ。
代わりに、弟がすべてを聞いてくれていた。
合理的で、感情よりも事実を優先できる弟は、まるで新聞記者のように、淡々と内容を伝えてきた。
すでに転移とみられる癌で、原発は不明。
どこから始まった癌なのかも分からず、このままでは治療は難しい、という説明だったらしい。
私自身もショックが強すぎて、話の細部はところどころ抜け落ちている。
それでも、医師がはっきりと言い切った言葉だけは、異様なほど鮮明に残っている。
「余命は三か月です」
あとから弟が、説明内容を文章にして送ってくれた。
そこには、回りくどい表現も、曖昧な言い回しもなく、
三か月というタイムリミットしか残されていない、という事実だけが書かれていた。
読み返しても、他の情報はほとんど頭に入ってこなかった。
2.家族で集まった夜
余命の話を聞いてから、すぐに兄弟で集まり、これからどうするかを相談した。
県外に住んでいる弟も、頻繁に実家へ戻ってくるようになった。
家族それぞれ、受け止め方は違っていた。
普段は陽気で、「癌なんて笑ってれば治るよ」と言っていた弟も、
奥さんの話によると、家ではずっと泣いていたらしい。
誰かが強くて、誰かが弱い、という話ではなかった。
表に出し方が違うだけで、全員が同じように追い詰められていた。
父は、毎日のように泣いていた。
このままでは父のほうが先に倒れてしまうかもしれないと思い、
兄弟で交代しながら実家に泊まり、食事の用意や身の回りの世話をすることにした。
それと同時に、誰に言われたわけでもなく、
兄弟それぞれが、本やYouTubeで癌について調べ始めていた。
私も、気がつけば癌に関係する医学書を百冊ほど読んでいた。
治るかどうかよりも、
「今の状態で、負担なくできることは何か」
その一点ばかりを探していた。
調べた中で、あまり無理のなさそうなことがあれば、
父や母に、押しつけにならないように伝えるようにしていた。
本を読んでいるあいだは、少し気が紛れることにも気づいた。
3.どうにもならないことと、気を紛らわせるということ
調べれば調べるほど、分かってきたことがある。
結局のところ、私たち家族にできることは、ほとんどない、という事実だった。
症例や統計をいくら追っても、
状況が劇的に変わるような答えは見つからなかった。
知識を集めるほど、「どうしようもなさ」だけが、はっきりしていった。
それでも考え続ける中で、ひとつだけ強く思ったことがある。
ガンという病気は、家族力が試されている病気なんじゃないか、ということだ。
病気になった本人が、
まだ生きたい、生きるのは楽しい、
そう思える気持ちを引き出すこと。
それが、周りにいる人間に残された、数少ない役割なんだと思った。
そこまで考えると、あとはもう祈るしかなかった。
私は、願っても届かず、若くして亡くなった人を何人か知っている。
祈りが万能ではないことも、残酷だけど知っていた。
本を閉じたあとも、母のことを思い出しては、不安になった。
何もしていない時間が、いちばん危なかった。
だから私は、ひたすら気を紛らわせることをした。
絵を描いたり、本を読んだり、作ることに異常なくらい集中した。
座っている足が痛み始めていることにも、気づかないほどだった。
時間の感覚も、空腹も、全部どうでもよくなって、
ただ目の前の作業だけに没頭していた。
それは前向きな行動というより、
深い悲しみから目をそらすための、必死な防御だったと思う。
でも今振り返ると、
あの「気を紛らわせる」という行為が、
私を壊さずに済ませてくれたのだと思っている。
この記事で伝えたいのは、立派な教訓でも、前向きな結論でもない。
どうしようもない状況に置かれたとき、
人は何かしていないと、簡単に心が潰れてしまう。
だから、なんでもいいから、気を紛らわせてほしい。
絵でも、本でも、作業でも、意味があるかどうかは関係ない。
気を紛らわせることは、逃げじゃない。
生き延びるために、必要な行為だと思う。
4.孤独にしないという選択
母を一人にする時間は、ほとんどなかったと思う。
私も頻繁に顔を出したし、弟の誰かしらが、毎週のように実家へ帰ってきていた。
誰が決めたわけでもないのに、自然とそうなっていた。
家族で集まる機会は、明らかに増えた。
家族旅行も計画して、実際に出かけた。
行けるうちに行く、それだけだった。
集まるたびに、それぞれが調べてきた癌についての情報を持ち寄った。
不安を煽るような話は避けて、
できるだけポジティブな情報を中心に伝えるようにしていた。
それを聞いた母と父も、すごかった。
言われて「できそうだ」と思ったことは、
小さなことでも、毎日きちんとやってくれた。
無理をしているようには見えなかった。
できる範囲で、淡々と、生活の中に組み込んでいく。
その姿を見ていると、
最後まで自分たちの人生を生きようとしているんだと感じた。
何かが劇的に変わったわけではない。
ただ、母が孤独にならない時間を、
家族全員で積み重ねていただけだった。
5.三年という時間
実は、あれから三年近くが経っている。
この記事を書くこと自体、ずっと避けてきた。
書いた途端に、何かが悪い方向へ進んでしまう気がして、手が止まっていた。
当時の診断では、「希少ガン」と医師は言っていたらしい。
原発は、結局いまもはっきりしていない。
幸いだったのは、執刀医が有数の名医だったことだ。
実は父も、余命宣告こそ受けていなかったが、
進行度としては終わりを覚悟するほどの、ステージ4の膵臓ガンだった。
その手術を引き受け、メスを握ったのも、同じ医師のチームだった。
母は、抗がん剤の辛さに耐えながら治療を続け、
今も元気でいる。
「根治」という言葉は、まだ聞けていない。
それでも、見た目にはすっかり元気になった。
抜け落ちていた髪も、ちゃんと戻った。
振り返ってみると、
私たちにできたことは、やはり多くはなかった。
それでも、家族の誰一人として、折れなかった。
結果を待つ時間は、正直つらかった。
大切な人が、いつ死ぬか分からない状況に置かれるというのは、
心を簡単に壊してしまう。
でも今は、はっきりと思っている。
あのとき心を守ったのは、閉じこもることではなく、動き続けたことだった。
もし、大切な人が同じような状況になってしまった人がいるなら、
私から言えることは、ひとつしかない。
とにかく動いてほしい。
それは病気を治すためじゃなく、
自分の心を守るために、だ。
ネガティブに引っ張られないように。
むしろ、少しでも前に動けるように、誰かが引っ張り続けること。
それができれば、
サイコロの出目は、ほんの少しだけ良くなるかもしれない。
私は、そう信じている。
三年間、
母がガンであるという事実は、
楽しいときも、悲しいときも、
一度も頭から離れなかった。
ふとした瞬間に、
「もうすぐ母はいなくなるかもしれない」
そんな悪い想像が、何度も浮かんでは消えなかった。
そのたびに私は、
何かをして、その気持ちを潰した。
考えきる前に、手を動かした。
動いていないと、簡単に折れてしまいそうだったからだ。
だから、どうか折れないでほしい。
悲しみや不安を、ひとりで抱え込まず、
何かをして、自分を守ってほしい。
折れないことは、強がることじゃない。
生き延びるための、選択だと思う。
どうか、折れないでほしい。


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